2020年9月16日水曜日

歌集 「昌樹老残」

1994年10月10日 全52首  

 

 

 

       一生の楽しきころのソーダ水

              富安風生

 

 

 

墨田ユキの乳首うつくしグラビアの上にばらばら崩れる柘榴

盛夏なる木机に開く海やまの生きものの絵の多き一冊

美しき髪と目を持つ娘あればと思えり老いとこれを呼ぶべし

極楽という言葉そのごつごつとした音憎む憎むこともよし

十年の知己と対座し料理待つつまらなさ何の比喩というべし

あからさまにわが老いをいう女の手しげしげと見る右手左手

夢に得しもの皆夢に忘れ来し(あした)湯掻きし蓴菜の冴え

()ずる浜田老人隠しえぬ顔のみにくさ醜さもよし

あたらしきことひとつ無き父母の家ラブレーを全て置き来し

来たるべきこの冬の寒さ厳しかるべしと聞く坂のあかるきところ

「母」たちはただに醜し寺に近き公園を避けて歩む他なし

同僚の繁く来る書店なれば足向かなくなりぬ遠き書店へ赴く

人生の役者としての自覚なくふいに居り夏の暮れの風なか

自殺せし詩人の伝記その赤き布張り装のあたたかさかな

五指に満たぬ回想のなかに母はあれひとり焼く肉の音の楽しさ

腰おろすまたは茶を飲む共通点ほかになき群れを一家と呼ぶか

料理屋よく伴侶よき夜たしかなる幸せはかかるかたちにて来る

愛をいう必要もなき一日の午後から夜の木枯らしの音

こころついに踊ることなき再会のあいだ揺曳やまぬ虚子の句

手帳開き閉じればそれで確かとなる気懸かりに樺のごとき香のあり

素麺を沈めてきつく澄む水に金属を裂く蝉の声来る

南天の濃きみどり揺らしわれに来る晩夏のかぜはどこかむらさき

いわし屋「ハチ」のいわし団子の付け合わせ紫蘇味噌が好きでまた今日もいく

玉葱のにがさに今日の生きがいを賭けるべくわがシリアス・サラダ

映像を見ることに飽いて豚草の繁るかなたのビル群を見る

ブラームスひとりで聴く夜くりかえしくりかえし聴くただひとり聴

鯉の汁たけき熱さを含む卓百合あり百合の(さが)(ただ)れて

さるすべり夢とうつつの境目を問わねば赤と白とむらさき

ひまわりのイミテーションはよく売れず花屋水撒く夕べとなりぬ

たなごころ隅々を白きつめたさの守宮(やもり)が噛めば()はよみがえる

じかに寝てつくづくと見る黒々とよく年経りし田舎の舞台

「天河」の湯麺はだめで叉焼麺麻婆定食餃子までだめ

わが足の足裏ふれぬしら砂の一粒のほうへ降る流星群

あたらしきペンの内なるみずうみのみぎわほど清きことば出で来よ

風ふけば柳の糸を髪として名をなのれきみは春野みどりと

夏残る窓ちかき大き木机に手を置きて手と木机を見る

写真機とよぶべきほどの器械なき小売店前で人を待ちしことあり

三口にて珈琲を飲むワイシャツの似合わぬ男ペンを忘れ行きけり

気勢ばかりの書籍あつめる棚を過ぐ わが死の床に書は排すべし

近ごろの便りの二三つくづくと眺めるほどの悪筆もあり

終わりなき差異化というか天然水のボトルの並ぶさまに疲れる

知識人と自称するひと老若を問わず小さき瞳孔を持つ

最新をうたう電話機あじけなく売場の美女の写真の粗さ

歯科看板薄青く明かり灯されて東京の路地はかくも寂しき

酔いびとは水色の背広引き摺って行くなり晩夏夕顔の径

書くことの望ましき手紙書けぬまま豆のふくませ煮ふくめ始む

秋の雨こおろぎの声消さず降るその雨音の粒立ちのよさ

手になじむペンはおのずと一本になりぬMITUBISHI SN-80

かくもかくもわれは醜し背の骨のうしろ姿の枯れ柿木立

冬木立なおも吸うべき寂しさのあり冬過ぎてまた此処訪わむ

里果ててひたすら広き枯野ありついに我がものならぬひろがり

春雨のかなた島影しろく立ち勝敗はなべて遠き茫々


 

 

【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 24  [19941010]編集発行人駿河昌樹 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)

 

 

                              

参考

NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 24 編集後記
老残といふ言葉は美しく、わたくしの日ごろ愛してやまぬ言葉である。この言葉に触れるたび、豊かな枝振りの桜の満開の様に心奪はれる思ひがする。さういふ言葉を、ここに読まれる小歌集の題名に用ゐるのは、むろん適切とは言はれない。わたくしはまだ老残を誇る域に余りに遠く、もし花があつたとしても、まことの花ではない時分の花といふべきだろう。時分の花はすなはち移ろふ。失はれた花を惜しみつつ、さては心ばかり駆けて老残を夢見るか。なんとも危険な状態といふほかない。言葉いよいよ冴え返るべし。ここよりおそらく、わたくしは境を変へる。
 一九九四年十月

                               

2020年9月12日土曜日

歌集 「森とみずうみのからだ」

1994年3月25日 全75首

  

 

  花は野にある(やう)

     利休七ヵ条

 

 


きみのにおいからだのにおい立ち起こるラクロの集をひらく間もな

 

 

 

触れんとし触れずに見つめいる時のもっとも熱ききみのからだは

 

首すじに口つける間も閉じぬ目に一番星と海の密約

 

「風と手はおなじ手際ね」ひと遠きところのわれはゼフィロスの弟子

 

ひとことも愛とはいわず中指に髪まきつけることより始む

 

まだ口にふくまぬ髪の数本を求めてすべるくちびる濡れて

 

クレメンス・クラウスの棒の振り出だす音楽のごとく頬にくちづけ

 

夏芙蓉ひくく流れる香のなかに玉の熱持つきみのひとみは

 

耳をわが歯のすべるときなないろの海すべる風にきみはふるえて

 

そっと耳噛む時あかきあさやけのしずけさのなか愛の密約

 

耳を噛む喉うなじ肩すべて噛むおろそかにすまじ愛の儀式は

 

くちびるの奥にあふれるさらさらと軽き味持つ水ふくませよ

 

指の記憶いずみの水のつめたさに咲くくまぐまのきみのからだは

 

抱くということばをわれの好まねばこの猫の子の毛をすべらせて

 

くちびるはゆっくりすべるものと知れ丘の神・谷の神・森の神

 

やわらかきものへとかくもやわらかに接しゆくこの潮のたかまり

 

きみの腰のあのかがやきを知っていてなお輝かしきを求むわが目は

 

抱きよせる腰の重さごくわずかなるちがいはきみの愛の表現

 

みだれ髪ひろがるものは荒涼とよぶには黒き黒き髪の香

 

そのたびにあたらしき肌この胸のかがやきもいま生まれたばかり

 

たわわなるこの胸のおもさいつまでもわが胸()れず熱持ちていよ

 

しずむ陽の記憶沈まずやわらかき肌にしずますわがペルソナを

 

時代より永遠へ逸れよたわわなる乳房受くべしわが両の手は

 

肉は霊かくまで肉のきらきらとかくまで肉の思いは凛と

 

香油つよくかがやく髪のゆたかなるみだれを受けよ白の沃野は

 

背も胸も精妙な楽器目つぶりて弾く時われは夜明けの譬え

 

森が呼ぶきみがわれ呼ぶ呼ぶ声に純な(いら)えとしてあれ、からだ

 

指と指の数ミリの動き正確にからだの波へ波をつたえて

 

愛することなによりからだを愛すること…… つぶやくは時に宝石となる

 

吸えば清く汗さえ清くふたりいることで目覚めるからだの清さ

 

ざわめきのやまぬ過敏な森を持つからだの汗の芳醇の香よ

 

水は混ぜてともに飲むべし飲みくだすとき香りたつ野葡萄の口

 

背の香り乳房の香りわずかなる異なりを知るわが鼻も咬め

 

ぬくもりも甘きことばも求めずに透きとおるほどの発情をせよ

 

情欲のつねなる清さわれらみな水より水へ流れゆく水

 

われを吸う肉化せし虚無ごうごうと外吹く風も愛の行為か

 

主張せぬ思索さえせぬ細胞のあつまりとなる浄欲となる

 

希少なる鉱物としてからだより言葉より深きものの名により

 

底知れぬからだの底にただ向かうわれは滝すでにおとこではなく

 

汗ひかるわきばらの塩の味つよく海近しいつも愛するときは

 

アメジスト秘めているような胎あつくその紫の熱を吸うべく

 

精神(ガイスト)にいかにかかわるしなやかにわかきおまえの泉のほとり

 

くるしみに似た表情をつつむ闇その闇がいま発火せむとす

 

われよりもわが肉を愛すくちびるにかぐわしく甘きレバノンの桃

 

こぼれたる蜜熱く熱くとどこおる豊かなれ深きバロックの森

 

この黒き肌のおとめを地軸とし聖季節まわるまわるまわる

 

動きへとせつになだれるときの滝清められゆくあかしの汗よ

 

いのちへともっとも近き暗がりを見る視力得んとして目をつむる

 

目をつぶるわが身のうちも吹き抜けてなおも一個の肉体であれ

 

わが指になお残るかたさなお残る制度の澱の殺戮をせよ

 

極みへとむかう流れに入らんとす寄せてはかえす無限旋律

 

おとこ/おんなでまさにあるとき概念はしずかなる(うみ)の宿の青蚊帳

 

指先の芯までの痺れかなかなの啼く頃の血の清き瀬音よ

 

沃土ともよぶべきからだ考える葦は荒れ野にこそふさわしく

 

荒淫とよぶことの清さ流星の尾ほどもながき水草みえて

 

あかり消さぬふたりとなりてあきらかに見えるからだの見えない奥

 

胸も腰もともに隠さぬきみといてまだ深くふかく泉は逃げる

 

つくづくと女はマリア海やまのすべておさめる薄闇のなか

 

背のくぼみその濃き陰に憩いたるわれを信じよそのわれのみを

 

うすあかり油のごとく背を腰を流れておれば指はとまどう

 

われらふたりからだに遠く超えられて意識は森の夜明けのようで

 

からだ脱ぐことを覚えし昼過ぎを菜の花はかくもあかるく燃える

 

手も口ももどかしなおも尽くしえぬからだは深き藍のうずじお

 

わが愛のちからの弱さこえるべきものあざやかに鉄線の花

 

まだすべて終ってはおらぬ眠らずに迎える朝の青の永遠

 

みずうみは今朝もしずかに愛慾のかたちのままにさざなみの青

 

まじわりは海の味してようやくにわれらの潮の高鳴り止みぬ

 

燃えあがるという形容の通俗をはずれはずれて肌冷え始む

 

神経のつぼみの開ききりしのち高貴なる石のごとし疲れは

 

きみの髪黒髪ほそき戦乱のあとの小川の水草の茎

 

樹のみどり草のみどりに変わりゆく湯浴びればかくもあかるき蜜毛

 

蛍ぶくろこの朝の愛のおこないを喩えるによし摘みに()に出

 

胸に顔うずめればすでに爽涼の秋の冷たき(はだえ)なりけり

 

いつもいつも別れるときのくちづけはわずかニュートン力学それて

 

 

 

クラップフェンの森でいつかのように会う 純愛のようにいつかのように

 

 

 


 

【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 18 [199]編集発行人駿河昌樹 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)

 

                              

参考

NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 18編集後記
架空の生しか歌わぬということは、むかし寺山修司にさんざん学んだことだ。わたしの歌はまずいが、架空の生さえ歌うまいという覚悟では、寺山の跡を忠実に辿ろうとしているといえる。なにかを歌おうとしてはいけない。ましてや自分の生など。歌はたんに歌でなければいけない。そうわたしは思っている。わたしの人生など犬に食われろだ。自己も自分の人生も粗末にするという点だけは、ひとに引けをとりたくない。こういうふてくされた精神から出たひとつらなりのことばが、もし、あれやこれやの人生の瞬間を照らし出すようにみえるなら、日本のことばの幻術はまだまだ衰えていないということになる。まぼろし、よろこぶべし。わたしたちはそうやすやすと悟ってはいけない。言の葉のうず巻く森の深みへとなおも迷い入り、柔肌に道を踏みはずし、ここかしこの美酒に舌を痺れさせなければいけない。こころして、まごころだの真理だのから離れよう。まぼろしを支えるちからをこそ、いのちとよぶ。花鳥風月の消滅を嘆くまえに、わたしたちにはいつも、このまぼろしを美しくふくらましてみる義務がある。
一九九四年三月

                              

 





2020年9月9日水曜日

歌集 「白」

1993年9月30日 全19首

 


 

もう森へあなたは行かぬその森の青き惑いにふり向きもせず

 

白き海暮れがたもなお白きまゝ心は旅をすでに終えたり

 

死をこえて香るポプリの花々よ問うてはならぬ不死の愛など

 

食事終わりふいに死近し卓上にこぼれし飯の数粒冷えて

 

あたらしき花みな散れば戻り来る花なき白きたゞ白き時

 

ぬばたまの闇わが肌に重き夜来世は若き結婚をせむ

 

波音を吸わすべくたゞ吸わすべく広げたままの夏の便箋

 

水に輪を描いていた人その指の水を離れるような愛撫を

 

耳をわが歯のすべる時なないろの海すべる風にきみは震えて

 

珈琲店出る時ふいに古城見ゆ十二月三日南青山

 

春近きあけぼのの寒さ衾中にすでに芽吹きし硬質の老い

 

春の雨やわらかく生きること難く花のさかりを森に迷えり

 

愛すでに語らぬふたつ肉体のごとく熟してしずかなる桃

 

過去の波あざやかに青く迫り来る故郷はひとり守りゆくべし

 

各停の列車のひかりさびしくてあゝなぜきみはここにいないか

 

からだには幾つものからだ宿るらしどの海も海思い出すとき

 

春のかぜきみの遠さを吹きわたるしばらくの間の肌のしずかさ

 

海やまにもはや向かわぬまなざしで新しき春のベケットひらく

 

流れゆく雲のよろこび老いてゆくからだにはまたからだの愉楽

 

 



【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 14 [1993年9月30日](編集発行人:駿河昌樹 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)

 ※かつての編集委員の川島克之と須藤恭博は離れ、雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」は駿河昌樹の個人誌となった。



2020年9月5日土曜日

歌集 「スターテイング・オーヴァー」

1992年11月15日 全157首

 

 


オレンジング


オレンジの三個わずかに色異なるさまたしかめて水際へ立つ

教会のつめたき白亜久遠なるものなしつよくオレンジ握る

さわやかさを、いのちをと声は言わんとす心からいまはオレンジを買う

白き皿にオレンジ置きて切る時をこころ確かに永遠を見よ

赤土の道かたく乾きオレンジを吸いてもかたしわが心かも

ひとの手の触れえぬ高き枝になりしオレンジさらに高き青空

オレンジの香り愛する女なりきその女愛する男なりしわれ

オレンジ買いて紙袋胸に抱きしめる湿度の高きことさえうれし

捨てがたきオレンジの種あかるさの七八センチの追憶のため

繁茂せし脳裡の悪草ふかきその根より焼くべくオレンジを吸う

オレンジ公ウィリアムの章深きより来るもの求む悪癖のゆえ

唇の乾きつのりしその週の四夜と五夜のオレンジの夢

オレンジの汁胸に散りて詩のしぶき受けしと思う 熱帯夜、無風

愛のことば語りたることなき口のままにて今朝のオレンジを吸う

食卓にオレンジとナイフのみを置く朝はやくより簡潔な妻

 

 

恢復まで


心のみはつねに地の果てにあることく海近き駅に砂踏みしめる

名を知らぬ美しき花あれどさびしさはさびしさ深く退行すべし

一瞬の胸のうちなるひそかなる死 ただ数楽章バッハ聴きたし

あまきあまきポブリの香 かの湖畔での決意の時も目を閉じていし

風鈴のくろがねの重さ はるばるとわれに吹きくる海風がある

今夜へも死なねばならぬ脳ふかき疲れを明日へ継承しつつ

人ら来て集いて去りし庭の端にわが肉体という沈黙が立つ

降らぬ雨こころの血ほど赤き色の想像力の土乾きけり

 

 

もの書かぬ日々

もの書かぬ日々過ぎてつよく雨降ればわずかに(かろ)き夕暮れの聞

ベンデレツキー(かろ)しロマン派わずらわしかかる日ペンをとらんとし止す

ふり返れば経験のなき晩夏の恋ヨットを抱きて少年も去る

出港を間近に海の七色に向かいしままであれよ心よ

数えれば無数ではない浜の砂もあなたとともに迎える朝も

雨の日の消しゴムの滓つまむ指に今ついに届くひとつの花信

書も街も捨てし頃過ぎてみな過ぎて美しつよき雨の紫陽花

書き送るべきひと死にて地中海ほどに青つよきつよき便箋

想像力二度も三度も枯れし後…… 雑音の向こうコルトーが弾く


緑の芽あざやかにふくそのひととわれの別れのはじまりの時

生卵るるるると下る食道の触れることなき浜の秋風

木星まで落ちていく速さ秘めたままふたりはなおもはっきりふたり

古書店の隅に文字追うひとの背に鮮明瞭然ジョイスが笑う

説明のわずらわしさよ夏山にただ夏山の風は吹くべし

列車来て列車に乗りてひとは去りぬひとりの胸の感じやすさよ

石にすわり文庫本読みぬ夏空よ遊ぶすべ知らぬこのところ見よ

橋に立ち瀬の音のなかに迎えれば山峡の村の闇かがやかし

新宿駅にひと満ちてここに死ぬもよしジバゴの娘われになけれど

来る日来る日純金のごときつまらなさ今日風つよく夜曇りけり

父の夢見ることは見たが… 起きぬけのレモンジュースのうまさ冷たさ

レヴィナスいう「意識は実存の死なり」夏の昼の線路に耳を付けしことあり

うらむひと愛するひとの二三ありて灸られることく蝉を聞きおり

過ぎてゆく一日のかぜ草も木もいつまでも飽かず揺れておりけり

 

 

恋歌

 

十ばかりいな二十ばかり若きその清冽、可憐、蕾のおとめ

頭中将われになき夏 橋の下に寄せ来る波に恋は語らむ

ビール工場過ぐ時あつき日盛りの朱きカンナと来世契りき

大殿油ありありと見ゆ先の世のその暑き夜のあの場あの時

はじまりしもの愛と呼ばぬ娘なり曙の頬の若きつめたさ

夏の恋みのりゆく日々か川に足ひたしてわれら言葉すくなに

その日なりき今日その日なりき一本の大輪の薔薇は手折られにけり

 

 

ラヴソングス Ⅰ

陽のあたる通りをいつも選んでいく それだけだったあの頃のきみ

ディ・バイ・ディかたちをさらに超えていく今宵も月に唇焼かれ

遠くまで走り続ける風のうた起これ、一本のペンの天使の軽さ

沈む陽に赤々と川、草、小石、靴、ドレス、指も金の指輪も

恋わかき頃吹くという南東の終日の風に一日終えたり

ふたりでお茶を…… 森おわる青ことに濃き海のほとりで

ロンドン橋に霧なく今日はふたり行くいずれはかかる霧思いつつ

夜はやさし狂いゆく心ありながらゆっくりとグラス選びはじめる

奇跡いま目の前に見ゆこの顔がわれ長くながく見つめていたる

まるで恋ほとんど恋の目のひかり、唇は赤き詩神の通過

なぜぼくのすべてを取らぬ八月も九月もこころ震える聖女

愛の歌われは歌わぬ 今きみが開きし雅歌にわが歌は聞け

一晩中こころは騒ぐさわぐべく神の給いし小さかる森

夏よりもはるかに強き輝けるもの去りききみは微笑むけれど

テーブルマナー律義に守るきみは手に秋、つまり銀のフォーク持ちおり

庭園を移ろうひかりダイエット・コークの泡さえ宝石のとき

空をきみにあげようと思う夜も昼もぼくさながらにきみを離れぬ

わざときみを見ないこちらも見られない。月。森。これがゲームの規則。

頬と頬、その隔たりのうちにある億光年の震えおののき

人目避け、声ひくくまるで革命だ その上きみの赤いスカーフ

まだ言わぬことばを波に浮かばせて ぼくは待つ波の止まるその時

酒とバラの日々過ぎて海と月光の夜々きのう今日の波の静けさ

恋ふかく深くなりゆくぬばたまの黒葡萄ほどに()しきくるし

とけていく夜の静けさラヴソングつくるほかなき心の炎

生きることやさし花束買うまでの逡巡ののちのこころであれば

眠らぬ日眠らぬ頭かたわらにきみなきゆえに心なきゆえに

手紙待つわが胸の海うち寄せる波高くたかくなりまさりゆく

 

 

文体

チェット・ベイカー、寄せ来るかたちなき淡きあわき光の夜、ただの夜


誘う指、その震え、遠き車の灯。「これがそれか?とランボーはいう。

変わる律、わが韻の時代(とき)燃える風に胸をはだけるジェニー、ジャネット。

水と愛。まだ踏み行かぬ草原に大理石舗石ひとつ携え

わがひとつの、たったひとつの愛ののち波輝かしメドックの海

アラバマにまた星落ちて目にしみるAトレインの煙草のけむり

ひとり充ち実りゆくこころ自動車の走り来て去る音のやさしさ


ジュ・ルヴィアン、ラストノートに移りゆく。戻り来てなお戻りゆく夜

         *「ジュ・ルヴィアン」は、比類なき完成品といわれるフレデリック・ウオルトの香水


盃のこの一杯は書架の果て、かのアンドレに、A・ブルトンに。


水ぬるくぬるさうれしき八月の某日。きみとまだ暮らしてた


紙吹雪ちりゆく時をたえずたえず確かめる匂い、アニスの匂い


カーニバルだからと乳房、山盛りのうずら丸焼き、海かくす髪


ミスタッチ。アクリルのかたき透明がきみの香りに実りはじめる




ラヴソングズⅡ


海沿いのあの白い家に着くまではかたく明かさぬアンダーカレント


ガードレール乗り出してみるあの頃が突然戻るきみが戻らぬ


チェット・ベイカーともに聴き今はぼくひとり聴く夕暮れていく湖畔の車


リテラリィ・ドッグス・ボディ図書館をいつも夜出るいつもさびしく


ぼくにむかぬ場とは知ってる向かぬ時、向かぬ振舞い、向かぬ喜び


ついていくとき欲望は遠くまで森照らし出す ぼくは森、森……


ただ逢った、それだけが理由この薔薇といま取り出したぼくの心臓


陽のあたるところにきっと待たせとく 婚礼にさえ遅れてきても


ローズマリー・クルーニーほどに輝いて きみを編み成す元素らよ、サリュ!


夜はながくながく溶けゆく赤・黄・青の原色の旗の用意はいいか?


革命の実質はきみ 新憲法制定委員会に今夜もおいで


心にも血は流れ血は若返るハウ・マイ・ハート・スィングス・トゥナイト


あの時の赤薔薇写せしモノクローム 落ち葉のごとき写真一葉


列車出てしまう時刻の湖の静謐 なにがいいかわるいか


この奇跡を愛と呼ぶまたはあかつきの薄明の浜へ行こうよと呼ぶ


会う別れる会う別れるをくりかえしわが胸の奥の奥にいるきみ


言葉、口、こころ、行い みな清く統べられていくこの目のなかへ




スターティング・オーヴァー


師は老いてその老いのさまあきらかに紅葉しゆく秋の大学


そのこともまたあのことも終わりゆく秋来る海に溶けていく足


歌うこころ長く曇りし後の空よ去りゆくときを雲はうつくし


かなしさも光から来るたぶん、たぶん夕暮れていくテールライトよ


水無瀬川われらの言葉とまるとき秋のふかさは流れ続ける


誘わずにひとりで行けばあかるくてセンチメンタル・ジャーニーの海


ひとたびも愛は語らず沖をゆくひかり見るばかり立っているばかり


夕暮れの暗さに押され背に触れるいまきみを抱くこの手のひかり


風がふく唇の端をあたたかき春の一日の夢のなかより


あたたかさ肩に流れるたたえるべき太陽のもとに訃報も眩し


腕ひかることの喜びぬぐわねばいのちの証見るごとき汗


わが友はたぶん時のみ 過ぎてゆくものみな彼の友情のさま


習慣という語みつめてそのページに左手おおきく開きて向かう


「文学を学んでいます」と懐かしさのすがたして森のなかの十八


胸に顔埋めることの自然さのやまい癒すべく吸う半熟の黄身


コーヒーの底の微量の黄金砂含まずに発つきみもわたしも


すがすがしき朝木造りの手洗いの鏡の顔のうしろの青さ


鳴く鳥の鳴き続け止みまた始む受け身の生も豊かならんか


白き紙のべてなに待つ有限の歳月貸与されしからだで


ほの青き闇の夕暮れ暮れていくこと耐えがたきまでの喜びと知れ


通り過ぎる車の速さ滅びへと急ぐ内なるものを覚ましむ


時刻表に明るきひかりただ逢いて別れることにも洗練はある


カシニョールの一枚の絵の凡庸さしあわせのためにただ色を見る


汗つよく體えしにおいの時計バンド洗いておりき夏の逝く宿


耳の底によみがえらんとする《ライン》よみがえるものはいつも紺碧


鏡見し時のあの目は美しく…… われへの旅のなかばの桜


水流れ澱みてまたも流れ出る場所きみは母の指輪継ぐなり


愛の色は赤ではないというように振るハンカチのナイルの緑


密林と大河ばかりの映画見て帰ること哀し仮りの帰りを


《スターティング・オーバー》をかける冷めた茶もかならずたぎる 再生はある


目を閉じて桃の香は嗅ぐ海と山そのうえきみが見える時さえ


山がありその山を見る見ることに癒されていくひとりの小径


ひとり歩むことの確かさあやうさも装いすべし肉桂(シナモン)の靴


海のあの入江のあおさ失われ死に絶えるべきところなおあり


若きこと罪にあらずと思う現在(いま)風に吹かれていることの価


コート脱ぐ玄関の暗さアフリカの飢餓のフィルムに救われている


あれほどに愛せし女語ることなくかたわらにいて「愛人」終わる


手帖ひらきペン押しあてる アルベール・カミュがわれの何処にいないか


わが真昼過ぎつと思う花の色あふれる庭に汗ぬぐう時


フランス式庭園に故意に迷わんとするなにもかも知りつくしつつ


白き雲の白見つつひとに言葉ひとつかけずおり白の音聴いており


便りなき友の背浮かぶプルーストの革装背表紙裂け始めけり


「ブライズヘッドふたたび」だけを携えて晩秋の街を抱きに出かける


ブリジット・バルドーが泳ぐ黒いほど青ふかい海のように語るね


ひとりある夜のよろこび静けさを暴力と呼ばぬことのあやまち


とりどりの色のビー玉眺めいるほかにすべなきものの涼しさ


安時計のビニールのバンドふといとおし秋暮れる浜の紫のとき






【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 12 [1992年11月1]編集発行人駿河昌樹 編集委員駿河昌樹/川島克之/須藤恭博 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)




                             

参考


「雑誌Nouveau Frisson12号編集後記より

心が短歌から離れたことはなくとも、長いあいだ作歌が実を結ばなかった。歌が枯れていたのではない、創作への自己批評が勝り過ぎていたのだ。作っては捨てるという時期が一年以上は続いていた。

ここにまとめた歌は、今年の春頃から秋にかけて作られたものである。一度崩壊し尽くした創作の勘と意志を、これらの歌を作りながら構築し直そうとした。すでに十年は短歌に関わってきたが、今回ほど短歌形式の力と、の形式的束縛がもたらしてくれる自由さとくつろぎをつよく感じたことはない。

歌の姿に関していえば、かっての表層的な晦渋さから逃れて、イメージと意味と音との独特な有機的連関へ、また、そこから来る読みの定めがたさへと向かう過程を、さらに前進させたといえると思う。

読みの定めがたさというのは、人格や思想の定めがたさと同様、人間にとっての豊かなるものの確かな存在を示す指標である。この読みの定めがたさの程度が批評基準とされることをわたしは望む。それ以外の批評を、わたしはあらかじめ嘲笑しておく。

  駿河昌樹
  1992年11月