2020年9月12日土曜日

歌集 「森とみずうみのからだ」

1994年3月25日 全75首

  

 

  花は野にある(やう)

     利休七ヵ条

 

 


きみのにおいからだのにおい立ち起こるラクロの集をひらく間もな

 

 

 

触れんとし触れずに見つめいる時のもっとも熱ききみのからだは

 

首すじに口つける間も閉じぬ目に一番星と海の密約

 

「風と手はおなじ手際ね」ひと遠きところのわれはゼフィロスの弟子

 

ひとことも愛とはいわず中指に髪まきつけることより始む

 

まだ口にふくまぬ髪の数本を求めてすべるくちびる濡れて

 

クレメンス・クラウスの棒の振り出だす音楽のごとく頬にくちづけ

 

夏芙蓉ひくく流れる香のなかに玉の熱持つきみのひとみは

 

耳をわが歯のすべるときなないろの海すべる風にきみはふるえて

 

そっと耳噛む時あかきあさやけのしずけさのなか愛の密約

 

耳を噛む喉うなじ肩すべて噛むおろそかにすまじ愛の儀式は

 

くちびるの奥にあふれるさらさらと軽き味持つ水ふくませよ

 

指の記憶いずみの水のつめたさに咲くくまぐまのきみのからだは

 

抱くということばをわれの好まねばこの猫の子の毛をすべらせて

 

くちびるはゆっくりすべるものと知れ丘の神・谷の神・森の神

 

やわらかきものへとかくもやわらかに接しゆくこの潮のたかまり

 

きみの腰のあのかがやきを知っていてなお輝かしきを求むわが目は

 

抱きよせる腰の重さごくわずかなるちがいはきみの愛の表現

 

みだれ髪ひろがるものは荒涼とよぶには黒き黒き髪の香

 

そのたびにあたらしき肌この胸のかがやきもいま生まれたばかり

 

たわわなるこの胸のおもさいつまでもわが胸()れず熱持ちていよ

 

しずむ陽の記憶沈まずやわらかき肌にしずますわがペルソナを

 

時代より永遠へ逸れよたわわなる乳房受くべしわが両の手は

 

肉は霊かくまで肉のきらきらとかくまで肉の思いは凛と

 

香油つよくかがやく髪のゆたかなるみだれを受けよ白の沃野は

 

背も胸も精妙な楽器目つぶりて弾く時われは夜明けの譬え

 

森が呼ぶきみがわれ呼ぶ呼ぶ声に純な(いら)えとしてあれ、からだ

 

指と指の数ミリの動き正確にからだの波へ波をつたえて

 

愛することなによりからだを愛すること…… つぶやくは時に宝石となる

 

吸えば清く汗さえ清くふたりいることで目覚めるからだの清さ

 

ざわめきのやまぬ過敏な森を持つからだの汗の芳醇の香よ

 

水は混ぜてともに飲むべし飲みくだすとき香りたつ野葡萄の口

 

背の香り乳房の香りわずかなる異なりを知るわが鼻も咬め

 

ぬくもりも甘きことばも求めずに透きとおるほどの発情をせよ

 

情欲のつねなる清さわれらみな水より水へ流れゆく水

 

われを吸う肉化せし虚無ごうごうと外吹く風も愛の行為か

 

主張せぬ思索さえせぬ細胞のあつまりとなる浄欲となる

 

希少なる鉱物としてからだより言葉より深きものの名により

 

底知れぬからだの底にただ向かうわれは滝すでにおとこではなく

 

汗ひかるわきばらの塩の味つよく海近しいつも愛するときは

 

アメジスト秘めているような胎あつくその紫の熱を吸うべく

 

精神(ガイスト)にいかにかかわるしなやかにわかきおまえの泉のほとり

 

くるしみに似た表情をつつむ闇その闇がいま発火せむとす

 

われよりもわが肉を愛すくちびるにかぐわしく甘きレバノンの桃

 

こぼれたる蜜熱く熱くとどこおる豊かなれ深きバロックの森

 

この黒き肌のおとめを地軸とし聖季節まわるまわるまわる

 

動きへとせつになだれるときの滝清められゆくあかしの汗よ

 

いのちへともっとも近き暗がりを見る視力得んとして目をつむる

 

目をつぶるわが身のうちも吹き抜けてなおも一個の肉体であれ

 

わが指になお残るかたさなお残る制度の澱の殺戮をせよ

 

極みへとむかう流れに入らんとす寄せてはかえす無限旋律

 

おとこ/おんなでまさにあるとき概念はしずかなる(うみ)の宿の青蚊帳

 

指先の芯までの痺れかなかなの啼く頃の血の清き瀬音よ

 

沃土ともよぶべきからだ考える葦は荒れ野にこそふさわしく

 

荒淫とよぶことの清さ流星の尾ほどもながき水草みえて

 

あかり消さぬふたりとなりてあきらかに見えるからだの見えない奥

 

胸も腰もともに隠さぬきみといてまだ深くふかく泉は逃げる

 

つくづくと女はマリア海やまのすべておさめる薄闇のなか

 

背のくぼみその濃き陰に憩いたるわれを信じよそのわれのみを

 

うすあかり油のごとく背を腰を流れておれば指はとまどう

 

われらふたりからだに遠く超えられて意識は森の夜明けのようで

 

からだ脱ぐことを覚えし昼過ぎを菜の花はかくもあかるく燃える

 

手も口ももどかしなおも尽くしえぬからだは深き藍のうずじお

 

わが愛のちからの弱さこえるべきものあざやかに鉄線の花

 

まだすべて終ってはおらぬ眠らずに迎える朝の青の永遠

 

みずうみは今朝もしずかに愛慾のかたちのままにさざなみの青

 

まじわりは海の味してようやくにわれらの潮の高鳴り止みぬ

 

燃えあがるという形容の通俗をはずれはずれて肌冷え始む

 

神経のつぼみの開ききりしのち高貴なる石のごとし疲れは

 

きみの髪黒髪ほそき戦乱のあとの小川の水草の茎

 

樹のみどり草のみどりに変わりゆく湯浴びればかくもあかるき蜜毛

 

蛍ぶくろこの朝の愛のおこないを喩えるによし摘みに()に出

 

胸に顔うずめればすでに爽涼の秋の冷たき(はだえ)なりけり

 

いつもいつも別れるときのくちづけはわずかニュートン力学それて

 

 

 

クラップフェンの森でいつかのように会う 純愛のようにいつかのように

 

 

 


 

【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 18 [199]編集発行人駿河昌樹 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)

 

                              

参考

NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 18編集後記
架空の生しか歌わぬということは、むかし寺山修司にさんざん学んだことだ。わたしの歌はまずいが、架空の生さえ歌うまいという覚悟では、寺山の跡を忠実に辿ろうとしているといえる。なにかを歌おうとしてはいけない。ましてや自分の生など。歌はたんに歌でなければいけない。そうわたしは思っている。わたしの人生など犬に食われろだ。自己も自分の人生も粗末にするという点だけは、ひとに引けをとりたくない。こういうふてくされた精神から出たひとつらなりのことばが、もし、あれやこれやの人生の瞬間を照らし出すようにみえるなら、日本のことばの幻術はまだまだ衰えていないということになる。まぼろし、よろこぶべし。わたしたちはそうやすやすと悟ってはいけない。言の葉のうず巻く森の深みへとなおも迷い入り、柔肌に道を踏みはずし、ここかしこの美酒に舌を痺れさせなければいけない。こころして、まごころだの真理だのから離れよう。まぼろしを支えるちからをこそ、いのちとよぶ。花鳥風月の消滅を嘆くまえに、わたしたちにはいつも、このまぼろしを美しくふくらましてみる義務がある。
一九九四年三月