1994年10月10日 全52首
一生の楽しきころのソーダ水
富安風生
墨田ユキの乳首うつくしグラビアの上にばらばら崩れる柘榴
盛夏なる木机に開く海やまの生きものの絵の多き一冊
美しき髪と目を持つ娘あればと思えり老いとこれを呼ぶべし
極楽という言葉そのごつごつとした音憎む憎むこともよし
十年の知己と対座し料理待つつまらなさ何の比喩というべし
あからさまにわが老いをいう女の手しげしげと見る右手左手
夢に得しもの皆夢に忘れ来し朝(あした)湯掻きし蓴菜の冴え
菊愛(め)ずる浜田老人隠しえぬ顔のみにくさ醜さもよし
あたらしきことひとつ無き父母の家ラブレーを全て置き来し
来たるべきこの冬の寒さ厳しかるべしと聞く坂のあかるきところ
「母」たちはただに醜し寺に近き公園を避けて歩む他なし
同僚の繁く来る書店なれば足向かなくなりぬ遠き書店へ赴く
人生の役者としての自覚なくふいに居り夏の暮れの風なか
自殺せし詩人の伝記その赤き布張り装のあたたかさかな
五指に満たぬ回想のなかに母はあれひとり焼く肉の音の楽しさ
腰おろすまたは茶を飲む共通点ほかになき群れを一家と呼ぶか
料理屋よく伴侶よき夜たしかなる幸せはかかるかたちにて来る
愛をいう必要もなき一日の午後から夜の木枯らしの音
こころついに踊ることなき再会のあいだ揺曳やまぬ虚子の句
手帳開き閉じればそれで確かとなる気懸かりに樺のごとき香のあり
素麺を沈めてきつく澄む水に金属を裂く蝉の声来る
南天の濃きみどり揺らしわれに来る晩夏のかぜはどこかむらさき
いわし屋「ハチ」
玉葱のにがさに今日の生きがいを賭けるべくわがシリアス・サラダ
映像を見ることに飽いて豚草の繁るかなたのビル群を見る
ブラームスひとりで聴く夜くりかえしくりかえし聴くただひとり聴
鯉の汁たけき熱さを含む卓百合あり百合の性(さが)に爛(ただ)
さるすべり夢とうつつの境目を問わねば赤と白とむらさき
ひまわりのイミテーションはよく売れず花屋水撒く夕べとなりぬ
たなごころ隅々を白きつめたさの守宮(やもり)が噛めば吾(わ)
じかに寝てつくづくと見る黒々とよく年経りし田舎の舞台
「天河」の湯麺はだめで叉焼麺麻婆定食餃子までだめ
わが足の足裏ふれぬしら砂の一粒のほうへ降る流星群
あたらしきペンの内なるみずうみのみぎわほど清きことば出で来よ
風ふけば柳の糸を髪として名をなのれきみは春野みどりと
夏残る窓ちかき大き木机に手を置きて手と木机を見る
写真機とよぶべきほどの器械なき小売店前で人を待ちしことあり
三口にて珈琲を飲むワイシャツの似合わぬ男ペンを忘れ行きけり
気勢ばかりの書籍あつめる棚を過ぐ わが死の床に書は排すべし
近ごろの便りの二三つくづくと眺めるほどの悪筆もあり
終わりなき差異化というか天然水のボトルの並ぶさまに疲れる
知識人と自称するひと老若を問わず小さき瞳孔を持つ
最新をうたう電話機あじけなく売場の美女の写真の粗さ
歯科看板薄青く明かり灯されて東京の路地はかくも寂しき
酔いびとは水色の背広引き摺って行くなり晩夏夕顔の径
書くことの望ましき手紙書けぬまま豆のふくませ煮ふくめ始む
秋の雨こおろぎの声消さず降るその雨音の粒立ちのよさ
手になじむペンはおのずと一本になりぬMITUBISHI SN-80
かくもかくもわれは醜し背の骨のうしろ姿の枯れ柿木立
冬木立なおも吸うべき寂しさのあり冬過ぎてまた此処訪わむ
里果ててひたすら広き枯野ありついに我がものならぬひろがり
春雨のかなた島影しろく立ち勝敗はなべて遠き茫々
【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 24 [1994年10月10日](編集発行人:駿河昌樹 発行場所:東京都世田谷区代田1-7-14)
参考
「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 24 編集後記
老残といふ言葉は美しく、
一九九四年十月