2022年5月22日日曜日

歌集「錦繍」

 1995331日 32

 


  

草は山吹、藤、杜若、撫子。池には、蓮。

秋の草は、荻、薄、桔梗、萩、女郎花、藤袴、

吾木香、刈萱、竜胆、菊。

黄菊も。蔦、葛、朝顔。

いづれも、いと高からず、ささやかなる、

墻に繁からぬ、よし。

吉田兼好 『徒然草』第百三十九段

 

 



 

どの端も明らかならぬ灯火のよわきひかりのもとの錦繍

 

夜盥に水溜めていたり喪失のたしかなる水と譬うものありて

 

つぶつぶと肌甦らせるあかときの気のつめたさの讃を拒まず

 

瀧模してひかりなだれる朱のネオン盛時過ぎゆくこれが証か

 

わが指のつめたさのむしろ頼むべき精緻萌えたつ兆ならずや

 

静けさのまことしやかに変身の夜は明くあかくひんがしの燃ゆ

 

この生のどこよりわれの生と思う就寝の闇の細さ薄さよ

 

もの燃える音に溺れる激しさの伝承の裔のわが耳ふたつ

 

電球のあかりの硬さ碧なす深山の河のイデーの硬さ

 

眠る眠る猫の冬日の耳聴かぬ海の潮の立ち直る音

 

やがて湯になりゆくものの騒乱の白玉踊り始めたるさま

 

遠ければ音みな吾に響きくるかなしみのかたち昇る日のころ

 

いずこへと眠り向くべし麦秋のうなじの肌のあかるき妻よ

 

人間のわが手の甲を指先を寒き夜に見る人間の手を

 

馴染み薄き言葉あまりに多過ぎてアロエなど撫でて鎮めるこころ

 

二月尽つめたき畳触れいし後わが手愛するこころ進みぬ

 

みぞれ降りはじめし音にようやくに開く部屋ありて心なお暗し

 

部屋の闇いつも黄金にやや似たる薄明りすと眺むわが目は

 

旧き詩の本の破れに触れむとする時なにひとつ虚空に咲かぬ

 

生命ただ過ぐという思い鎮まりて眺むればなべてもの異様なる

 

寒きことに頬は親しみやすくしてしんしんと夜のさみしさとなる

 

天狼星わかく夜にありわが過ぎし歳月老いを構成しえず

 

ながくながく忘れられいし幸福の色して菫咲く庭を持つ

 

文体のふと萌ゆる夕べ冬ざれを冬ざれとしてわれは生き来し

 

ゆおびかに空につながる若き麦の原知らぬわが愛語ゆおびか

 

茶の温み求める指のつかの間の線延びる先の星もあるべし

 

寒さ降る一年のわかさ夜よるを奔るものいまわれ貫きぬ

 

わが盛りひとたびとして持たざるをやや温み持つらしき文机

 

親しみて来しひとの肌老いゆくを眼つぶりて川端におり

 

故しれず老い進めると思う一日遠き玩具の独楽の回転

 

われなくばなに持つ景か声のなき叫びのごとくひかる厨は

 

戦争を報じる紙面に鼻よせれば早春の草の鮮烈の香よ

 

電灯の線垂れておりそを眺むこれほど眺むこころと知りぬ

 

 

 



【初出】

雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 32 

 [1995331]

(編集発行人:駿河昌樹  発行場所:東京都世田谷区代田115 ホース115205

 

                                       


【参考】

NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 32 編集後記


一九九五年一月の歌より選んだ。わたしの文体のもっとも良く出たものと思う。「われ」という語をいつもより多く用いて作歌した。この語を減らせば、自意識の抑制がなされると考えるひとがいる。浅薄な思い込みというべきである。「われ」は単なる語にすぎない。むろん、花鳥風月さながらの心域を開き、往々にして「あはれ」に劣らない豊饒なる空虚を齎(もた)らす語ではあるが。

 

一九九五年三月