2020年8月30日日曜日

歌集 「インベンションとシンフォニア」

1991日 全84首

 

 

「クラヴィーアの愛好家,とりわけ学習希望者が、まず二声部をきれいに弾き分けられるようにすること。上達したならば、オブリガート〔=楽譜通り演奏すべき]の三声部を正しく上手に処理し、同時に、得られたすぐれた楽想 〔インベンション〕を巧みに展開していくこと。とくに、カンタービレの奏法と作曲の予備知識を身につけること。これらのためのはっきりした方法を示す明解な手引きがこの曲集である。」
 J
S・バッハ
 「インベンションとシンフォニア」1723年


 

 

 

さわやかな凋落の予感ひたひたとぬるき波来る芒種の波止場

 

 

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平均律クラヴィーア曲集開かざり南の海の浜の幾日

 

 

 

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ジャンパーの赤錆の染み駅へ行きて戻り来るほどの心の旅路

蜜柑剥く(あか)きつめたさ音立てることさえもせず記憶は崩る

ストーヴに火入れる時も白き山こころの山と言うべからざる

茶の熱さ歯裏に薊咲き出でてふと暗きわが千年ののち


ふるさとと口にしやすきひと憎むゆえかもしれぬ白猫愛す

口論絶えぬ隣人を持つ楽しさはたとえれば霧の中の月草

ヒヤシンスいまだ出ぬ黒き土の色失いてひさし幼き瞳

矢車草の時間の色を打ち寄せてまたひとつ波が波をぬけ出る

 

 


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月草のみだれる遠き戦場に受けし琥珀弾ベリゴレージの名持つ

 

 

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処女羊皮装手帖第一ページに海風の言葉 すなわち薬莢、ヘディン……

 

どの地点も無限に向かっていく 砂漠近きカフェ店主がテレヴィをつける瞬間


つややかな夜ひそやかな泉…… 青い本は閉じよ水の愛になりきるために


大地もその一部である宇宙、そのほうへ飛ぶ …で、抽象空間のための言葉はどこか?

 

 

 

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美しきひとに会いけり橘の金の実握り今日は眠らむ

海想う日の重なりてサモワ諸島海生動物誌夜々玩読す

 

 

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ヘンデルばかり聴いていた夏さびしさも恋も孤独もヘンデル色で


銀座線轟々と走るその中のわれその中のグラン・バルティータ

シューマンの冬、秋、……パリの街を舞う枯れ葉もこころ霙もこころ

マーラー2番廻りはじめるCDの機械音とおき海が近づく

ギボンズのフォルテピアノのごと響く受話器の向こう叢林の声

「死と乙女」かるくかるく生きんとするとき鳴りはじむ熱帯夜半

大ミサ曲響かせて冬の卓上に大きなる白き紙とペン置く

ペン軸の銀のつめたさ頬によせる時ふいに親しカラヤンの指

 

 

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愛よりもグレープフルーツ 人生の迷路のなかば、風に吹かれて

 

 

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自由な性を楽しむ女性、キミ 愛なき非=性のぼくを抱いてみるかい?


死んだのはだれ? 家庭を守る妻 麦藁色の髪そよぐ南風のなか

オスの体を走る女性的な電流がぼく なんのことだい「男らしさ」って?

女が歴史を振りかえる時メスは? 答えろよキミはメスだろキミは

神智学会破門の夜を飾りしローラ 女体というべき女体静謐

性器のための出エジプト記…… 発語すれど水晶球、カ・ラ・ダよ

新生児の柔肌を嗅ぐ若き父よ 子宮の香するゆえに愛すか

二元論を愛し続けるジェインの唇ジェインの膝ジェインの項ジェインの脳

大き痣あざあざと頬に持つ女教師 防波堤に新撰髄脳とみだれる

時代駸々として神人類へ マリ・クレール読者層が母になりゆく時

貞潔圧を癒すべし 唐草表装せし性革命イヤーブックに立ち止まるシマリス

 

 

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ジャンプの瞬間―― 隠され続ける美などない 北斎の波頭、ムササビの飛膜

ことばと非ことばに洗われて いまや呼吸する一個の時間でしかない背の水辺

形式回帰/蒼空…… さらに覚めゆくべし 詩人、テロリスト、恋する者は

 

 

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春泥に倒れゆく強き瞬間のオートバイ 黒きゆえ神につながるひとつ

 

 

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(セイ)(ロン)
茶はげしきものの色を識る沈黙のかくも孤独なるさま


夏の風ガラス戸に吹くさびしさの色見しまなこ今日も熱持つ

目をつむるひとときの深さその深き淵よりのびる細き赤蔦

あさがおの青の乱れる垣こえて死にふいに近き真夏のからだ

はや舟よふか山ゆけば青緑なすみずうみにわれは出でにき

山海経閉ざさずに青き茶をいれる熱く澄みゆく真夏のいのち

風鈴の()の底に澄むみずうみのさびしき(いお)のまなざしの色

月の影ほとほと水に目をさらす今よりは落ちよ幻と星

はらわねば蒼蝿の背に虚無ふかし煙草の灰の崩れうつくし

咲き渡る(はちす)の花の一日を満たせり二三あわき弔い

 

 

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黒ジャンバーの文学少女潮騒のからだ静かにページ切るなり

 

 

 

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心やさし科学の子アトムビンナップされおり非行少年の部屋

明日へとこころを繋ぐ言葉記し手帖にはさむ駅ビルのカフェ

黄なる色こころ支える一輪の花揺れやまぬ南海の崖


光るものにこころ動く日イミテーションゴールドに過ぎぬ飾りうつくし

気象学教科書繰れば一行も社会語らぬ学はうつくし

ぬいぐるみの子熊のジョンを抱きしめて澄みしわが目よアルバムの

夜の明かり涼しく生徒幾人(いくたり)を閉じ込めて船のごとき教

農耕のひと遠く見ゆ旅につかれ蓮華涼しき原なかひとり

艸千里はるばる来れば遠き日の希望のごとし黄なる野の花

屋久杉の話聞きたりわれ超えて高く静かにわれである樹々

 

 

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鮮血の湧出二三鶏頭と呼ばれしを少女買いて行きたり

 



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暮れ方の厨の薄き闇の色こころの中をさくら花散る

膚の花しずかに咲けり梅の香の中ことに白きうなじのあたり

春の雪失いしものの冷たさとみずみずしさに諸手はのびる

爪ひかる 仕事より戻る郊外線車中目覚めよかの少年期

春の川そのつめたさに生まれ出で輝きやまぬ魚の背も目も

姿かたちさまざまに春を待つ草の立ち枯れし色に染め抜かれたり

風を生む大きなる樹のごときものわが神のそれが指名手配書

空よこの底なしの深き青き穴にわが魂は落ちる重さ持たぬか

唇のかわきを忘る 谷川の瀬音に胸の底洗われて

白き紙白きまゝ今日も目を瞑り言葉の外の花園へ出る


春の旅いのちどこまで純粋に洗いさらしてゆけるものやら

 

 

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日溜まりの移ろいのさまこの日まで見つけずにきた二三の望み


ダンテ開くわが人生も旅なかば時間ほのかに香りはじめき

友と呼ぶべき友遠し越えるべきなないろの海想いて眠る

船の行くその先見れば空と海のわずか異なる青の色見ゆ

水ひかる田は遠見えて初夏の空の青ふかくふかく奪える

わが語る言の葉はるか緑なすかの山々へ戻りゆくらし

 

 

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荒れ野なるヨハンネス胸に目覚むる日例より長く花を見つめき

白蝶黄蝶舞うこの小径かえり見ればわが歩みしは万緑の中

春迎える爪のかがやきこれほどに素直に春の信仰をせよ

 

 

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イエスの瞳に見つめられている 私でない海の此処かしこ光、光だけが踊って

 

 

 

 

【初出】雑誌「NOUVEAU FRISSON(ヌーヴォー・フリッソン)」 7 [1991]編集発行人駿河昌樹 編集委員駿河昌樹/川島克之/須藤恭博 発行場所:東京都世田谷区代田1--14)